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歴史

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三社神社(さんじゃじんじゃ) 鞍ケ渕(くらがふち) 坂門一言(さかとひとこと)神社 郷寿(ごうじゅ)の名号塔 花山の題目塔 真乗寺(しんじょうじ)山門 金山 蓮如上人(れんにょしょうにん)の碑 鞍ケ渕(くらがふち) 東稲場(ひがしいなば)古墳群 稲荷山(いなりやま)古墳群 花山古墳群 丁(ようろ)古墳群 犬山古墳群 山ケ鼻(やまがはな)古墳群 戌山城跡

人々に恵みの雨をもたらした信仰深い石造りの神社

社神社(さんじゃじんじゃ)

福井縣大野郡誌には、三社の雨乞い、牛ケ原城跡より北に登ること約十町(約1Km)にして三社の社あり、境内30余坪、寛永年間の再建として石の小館あり。

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大野で一時代を築いた歴史ある山城

ケ原城跡(うしがはらじょうせき)

牛ケ原字鍋床山にあり、牛ケ原荘の地頭淡河右京亮時治の城跡と推定される。『太平記』に、「淡河右京亮時治ハ、京都ノ合戦ノ最中、北国ノ蜂起ヲ鎮メン為ニ越前ノ国ニ下テ、大野郡牛原ト云所ニゾヲハシケル」とあり、元弘3年(1333)北国を平定するために牛ケ原の地に下ってきたが、足利尊氏によって六波羅探題が陥とされたと聞くや、平泉寺衆徒は七千余の軍勢をもって牛ケ原を攻め、淡河一族は滅亡した。

看板を拡大する 地図を見る 牛ケ原跡イメージ

鎌倉時代に牛ヶ原を治めた城主の魂が眠る

ケ渕(くらがふち)

平泉寺衆徒に攻められた淡河時治は、二十余人の郎党では防ぎようがなく、二人の男子を鎧唐櫃に入れ、乳母二人に前後を担がせ鎌倉河の淵に沈め、母もまた唐櫃の緒に取り付いて身を投げ、時治もまた自害して果て、ここに淡河一族は滅亡した。鎌倉河の淵とは赤根川と日詰川の合流地点より約200メートル下流にある倉淵を指す。

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南北朝時代から大野を見守る城

山城跡

戌山城跡は、現代では天空の城「大野城」の撮影スポットとして有名だが、その「大野城」の先駆けとして築城された山城である。南北朝時代から大野の地を見守り、今は山城の地形を愉しみながら登山できる道が整備されている。

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大野の人々を厄災から守る由緒ある古き社

門一言(さかとひとこと)神社

醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」神名帳に収録されている「式内社」であり、一定の勢力として大和政権に認知されていた、古い由緒を持つ神社。御祭神は、「坂田大跨命」と「一言主命」の2柱である。坂田大跨命は継体天皇の妃・廣媛の父親(つまり義父)で、一説によれば、廣媛は足羽神社に関係するとも言われており、足羽荘との交流の中で坂門の地に祀られたと考えられている。一言主命は言霊の神様で、日本は言霊の力によって守られていると万葉集に書かれてあるのを見ると、坂門は「境」「検問としての門」が地名の起こりと考えることができるので、郡境に位置する場に強力な言霊神を祀って、大野盆地を外敵(怨霊や疫病)から護っていたと言える。

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健康・豊作を願う名号塔

寿(ごうじゅ)の名号塔

花山峠下、美濃道の旧道字郷壽にあり、天保飢饉の無縁の餓死者を弔ったとも、また村内に疫病が入るのを防止し、豊作を祈願して建立されたとも伝えられている。

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村から疫病を退けるため願いと力が込められた塔

山の題目塔

疫病が村内に入ることを防止することを目的として建立されたと伝えられている。この石塔に使われた石は、日蓮宗の門徒衆及び近郷の人々の協力によって、飯降山の中腹から運び出したものである。

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旧大野城を守った山門

乗寺(しんじょうじ)山門

寺伝によれば、開基は村山重輔尉永昌で越前国一乗谷初代朝倉孝景に仕え、文明13年(1481)7月26日蓮如上人の弟子となり、愛宕の英林寺で入道剃髪して法名を浄西とした。本堂の前に建つ山門は、旧大野城の裏門であった不明門を移築したと伝えられる。移築の理由は不明である。

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金とロマンを掘り続けた洞窟

中丁の

昔から金の採掘場としてこの地にあったが、昭和12年頃から数年間、大野町(現在の大野市)の写真館を営んでいた安田氏が投資者を募り、鉱石を採掘・製錬して砂金を採取した。10人程度が雇用されていたようだが、採算が合わないため、数年間で事業を終えた。その後、有志が再び採掘に挑戦したが、採算が合わずに10年ほどで事業を撤退した。今もなおいくつかの採掘跡の穴が残っている。
※金山は私有地であり、単独での入山は危険です。詳細は公民館までお問い合せ下さい。

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はるか昔に詠んだとされる蓮如上人の歌碑

如上人(れんにょしょうにん)の碑

勝山での布教を平泉寺僧徒に妨害された蓮如上人が、上丁に一晩宿泊した際に蓮如が詠んだ歌が「ようろとは、文字に書けばちょうのなり。かんな無き故、信者稀なり」(上丁の村民は文化が未熟だから、仏教のことは分からないのではないか。正しく仏教を理解する信者も少ない)と嘆いている歌である。この歌への返歌が「無量却(むりょうこう)かんな、大工に騙されて、今はお慈悲で、荒木そのまま」(確かに私たちはこれまでの間違った権威に染まっておりましたが、仏様のお慈悲により、今まさに蓮如上人がこの地にいらっしゃるという得難い機会を得ました。私たちは新木のように無垢な心であなたのご説法を聞くことができます)と返す。これを聞いた蓮如は大いに感心し、その晩村民に対して熱心に説法を行ったとのことである。
昭和10年頃、定期的に京都西本願寺から歴史家の説法師が説教に来ており、京都西本山の古文書を調べるうちに上記のような歌の存在に気づき、この歌碑の建立にいたった。

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蓮如上人とは?
室町時代の浄土真宗の僧侶。本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築き、浄土真宗を広めた当時のカリスマ的存在。85年の生涯の中で全国の津々浦々をめぐり、草鞋の鼻緒が足指に食い込むまで熱心に布教を続けたと言われている。

太古のロマン感じる「古墳ゾーン」

縄文時代の乾側は狩猟や採集のため、尾根や川の近くで生活していた。
また、弥生時代・古墳時代は地形が平坦で河川の氾濫が少ない水田耕作がしやすい赤根川流域を中心に集落が広がっていた。

稲場(ひがしいなば)古墳群

盆地北西部の谷間のやや奥まった位置で南方に突出する丘陵上にある。当丘陵は短く、平野との比高差も小さい。古墳の総数は8基であり、なお若干の検討を要する古墳も存在するが、おそらくすべて円墳であろう。1~4号墳は、丘陵の平坦部に並列している。谷間の低丘陵上で、円墳だけで構成している可能性が強いのは、本古墳群の特徴であろう。

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荷山(いなりやま)古墳群

盆地北西部の東方に突出する丘陵上にある。古墳の総数は9基であり、そのうち、方墳(方形台状墓)が1基、円墳が8基存在する。すべて同一尾根上に並ぶが、8・9号墳の2基は北方に伸びる支脈との分岐する個所に南北に並んでいる。丘陵の先端部を円墳が占めていることと、方墳(方形台状墓)の数が少ないのは、本古墳群の特徴であろう。

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山古墳群

盆地北西部の東方に突出する丘陵上にある。古墳の総数は8基であり、そのうち、方墳(方形台状墓)が6基、方墳(方形台状墓)の可能性が強い古墳が2基存在する。東方に伸びる尾根上には、1~6号墳の6基が並んでいる。そして、6号墳の位置する個所から北方に伸びる支脈上に7・8号墳の2基が並んでいる。丘陵の東・北の両先端部は方墳(方形台状墓)が占めている。概して、小規模な古墳が多いのが本古墳群の特徴であろう。

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(ようろ)古墳群

盆地北西部の北東方に突出する丘陵上にある。古墳の総数は13基である。そのうち、方墳(方形台状墓)が12基、円墳1基が存在する。北東方に伸びる尾根上に1~10号墳の11基が並んでいる。そして、6号墳の位置する個所から北北東に伸びる支脈上に12・13号墳の2基が並んでいる。丘陵の最先端には、円墳の可能性が強いものがある。円墳と見て間違いないならば、より高所に位置する2~5号墳の方墳(方形台状墓)より後に築造した可能性がある。

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山古墳群

盆地西部の北西方に突出する丘陵上にある。特徴として他の古墳群より比較的高い所に存在する。古墳の総数は12基であり、すべて方墳(方形台状墓)である。北西方に伸びる尾根上には、1~10号墳の10基が並んでいる。そして、10号墳の位置する個所から西方に伸びる支脈上に、11・12号墳の2基が並んでいる。本古墳群も犬山の山頂を中心として、後世に大規模な城を構築しているので、古墳の総数がはたして現存する12基だけであったのかどうか不明である。

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ケ鼻(やまがはな)古墳群

盆地北西部の南方に突出する丘陵上にある。古墳の総数は20基であり、そのうち方墳(方形台状墓)が14基、円墳が5基、前方後円墳が1基存在する。南方に伸びる尾根上には1~14号墳の14基が並んでいる。そして、9号墳の位置する個所から南西に伸びる支脈上に15~17号墳の3基が、14号墳から約160m北東方に離れた東方に伸びる支脈上に18・19号墳の2基が並んでいる。丘陵の南・東の両先端部は方墳(方形台状墓)が占めている。盆地内でも唯一前方後円墳全長が30mを超える6号墳や、円墳ではあるが径が20mを超える9・14号墳など、比較的大規模な古墳が存在するのは、本古墳群の特徴であろう。

出土品の中には東海地方の特徴である朱塗りの土器が出土し、大野は北陸地方だけでなく、東海地方の影響を受けていたとされる。

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大野市歴史博物館展示