矢地区では、荒れた里山を人と共存できる森にと、桜を植えて整備を始めました。
その活動は地区全体に広がり、そうした時の三年目の春に偶然カタクリの群生地を発見しました。
その後、カタクリの植生を調査、周囲の整備を始め、今では約3ヘクタール100万本のカタクリの里になりました。
矢ばなの里のカタクリはすべて自然のまま「近すぎず、遠すぎず」の間隔、これが自然に生えたものかと思うほど絶妙の間隔で生えています。
カタクリにとって一番良い環境を残そうと整備を行っています。
スポットAにて
スポットBにて
スポットCにて
福井縣大野郡誌には、三社の雨乞い、牛ケ原城跡より北に登ること約十町(約1Km)にして三社の社あり、境内30余坪、寛永年間の再建として石の小館あり。
牛ケ原字鍋床山にあり、牛ケ原荘の地頭淡河右京亮時治の城跡と推定される。『太平記』に、「淡河右京亮時治ハ、京都ノ合戦ノ最中、北国ノ蜂起ヲ鎮メン為ニ越前ノ国ニ下テ、大野郡牛原ト云所ニゾヲハシケル」とあり、元弘三年(1333)北国を平定するために牛ケ原の地に下ってきたが、足利尊氏によって六波羅探題が陥とされたと聞くや、平泉寺衆徒は七千余の軍勢をもって牛ケ原を攻められ、淡河一族は滅亡した。